繋ぎ馬

まずは絆の語源からひも解いてみよう。
絆とは、犬や馬を繋ぎとめておく綱のことをいう。 それを人の為に使い出したのはやはり東日本大震災だろう。 今日、グループデスカッションをする機会があり、お題がこのキズナであったので改めて考えてみることにした。

縁という繋がりを強固にしての『キズナ』

人にとっての絆とは、その人間同士が今でいうSNSなどで『繋がっているだけでは真意のキズナとは定義されない』感があると感じる。 ただ繋がっていればいいだけなら、語源の様に是非もなく動物を繋いでいればいい関係も含むからである。

袖触れ合うも多生の縁と昔からいう。 だから実際に触れ合わないと絆と呼ばれる第一歩はない。 ネットの触れ合いを否定するわけではない。現代としてはそれもいいだろう。でも意思疎通のない上での触れ合いには何の意味もないと思う。 ただ触れ合ったからといって、絆という『自分自身が感じる程の綱』はそんな簡単に形成されない。
人が離れたくても離れらねない程の想いを感じる為には、そんな上辺だけではキズナと呼べないのではないだろうか。 震災でも実際に被災地へ足を運んだ方は、リアルだからそこにブレがないと思う。 義捐金も手段としてはいいが、言ってるときだけしていることはないだろうか? もしお金というなら、綱を意識して定期的に寄付するならいいと思う。

ディスカッションでの発言者のコメントとしては

  • 学生時代の同僚と再会して話した時に感じた
  • 結婚して妻や子供を持って感じた
  • 介護施設で老人と触れ合って感じた
  • 親兄弟や仕事の同僚に助けてもらって感じた

など、どれも絆といえばそうだろう。
あえて極端に問いかけてみて、私はこう思うのだ。 全て関係を切ることも出来るはずだとね・・・
一時的な感情だけを軽々しく絆と考えていいのだろうか。一見間違ってはいないが、そう思うのである。 若者は意欲的に考え、絆とは何か自問自答した。 私もそれは同じで、今それに向かい合っている。

切っても切れないからそこ真意がそこにある

人は意識することから全てが始まる。 その『意識が強くなければ、離れられぬ程の絆とは感じない』だろう。 でなければ、嫌な想いで繋ぎとめられていることにも絆を使うべきだ。
例えマスメディアによって誇張されていても、良い意味でキズナとしてツナがそこにあるなら、本来の日本人らしいおせっかい屋さんなことの延長に絆があって欲しいと願う。 その為には『他人事ではなく自分事』として意識しなくては、絆自体も生まれないと思う。

だからこそ信頼され、その先に強固なツナもあるはずだから・・・

絆と思うことがあるなら、思い切って断ち切ったり距離をおいてみれば分かると思う。もしそれで疎遠になる程度ならお互いに袖触れ合った縁はあっても、そこに絆はなかっただけだろう。
重要なのは、そうした関係に向き合い、実際に切るのではなく『切ろうと考えた時に魂がどう感じるか?』なのだ。 絆は単なる表現法であって、魂がどこにあるかで決まるとも言えるのではないかと思う。 十人十色ではあるが、真剣さの伝わり方次第で決まる。
心と心を繋ぐ為に絆として使っているが、そんなに簡単にコネクト出来るなら私にもそのやり方を是非教えて欲しい(笑) 薬であっても即効性はないわけだから、宇宙に希望を願い、神に報告する中で徐々に成されると思う。

人は面白いものだ。 見ず知らずでも共通のお題に真剣に向き合ってみると、そこから仲間意識も芽生えて嬉しい感触がある。 退屈な会議とは違い、個々の意見をまず尊重することが大前提にあるから、皆が生き生きとしていた。 少々緊張していたので笑いをいれて和ませ役をした。 終了時間間際にこのメンバーで今なら飲みにいけそうだね!これもある種の絆かな??と言って、タイミングよく皆の笑いが出たのが良かった。 笑いにタイミングは重要だから(笑)
もし今日出会った人達とも街であった時に声をかけ合ったなら、擬似的だとはいえ絆の様なものを意識するのだろうと思う(苦笑) しかし真の絆は軽々しく使つかいたくはないと私は思うし、そんなお互いに言葉にすべきではない関係を築くことが、これからの目標である。